欲望の炎

昭和40年ごろ、日本人は、戦争の記憶も薄れ、米国の消費社会に憧れ、所得を増やし、電化製品を買い、車を買い、欲望の中に生きてきました。ちょうどそのころ米国を手本に原発が作られ始めました。


その頃住んでいた家にはエアコンなどありませんでした。ぶんぶん扇風機がうなっていました。
夏の日の夕方、庭の縁側から茶の間の四足テレビに向かい、兄弟と力士たちを声援していたころが、人生で一番幸せだったような気がします。


もっと、もっと、と欲望は際限なく拡大し、最終的には自分自身を破滅させます。
一見楽しいこと、快適なことの裏側には、実は苦いものが隠されているかもしれません。
何でも手に入る世の中というのは、実は世界の誰かの犠牲のもとに成り立っているのだとしたら
我々の幸福は、いずれしっぺ返しのように巨大な不幸を招くことになるでしょう。


例えば、病院で小児科医が24時間診察してくれるのが当たり前になるとします。しかも無料で。こんな有難い世の中は、どこかがおかしい。
小児救急のアクセスが容易になることは、99例の上気道炎にまぎれた1例の重大疾患児を救うかもしれません。でも、小児科医の身体と精神と人生を犠牲にしていることを多くの人は忘れてしまいます。
人は自分の都合のいいものしか見ず、耳に心地よいものしか聞こうとしません。
結果、夜間小児救急外来はどこも地獄となります。小児科医が頑張れば頑張るほど、親たちの不満は募るかもしれません。
以前のブログにも書きましたが、小児科医を怒鳴る親を見たことがあります。
深夜の当直で小児科医を出せと凄まれたこともあります。
そういった種類の怒りは、本当に愚かなことです。
若い親たちは、自分がしていることを理解していません。
小生の知っている同年代の小児科医はだいたい討ち死に(?)し、
いまは若い小児科医たちが頑張っています。


話がそれました。
欲望、怒りは結局自分自身の身を焦がします。
社会的には、日本と言う国自身をつぶしかねません。
一臨床医としては、犠牲的精神で頑張るのもいいのですが、
「自分が幸せであること」と「世界の皆が幸せであること」は等価であり
最小エネルギーで、皆がほどほど幸せを実感できるのが理想と存じます。

一見成長に背を向けているようなスタンスが、実は一番成長を促すとしたら。