剖検カンファレンス

剖検カンファレンスというものがある。
大学病院で、患者さんがお亡くなりになられたあと、大概は病理解剖が行われる。どんな夜中でも病理医が電話一本で駆けつける。
ご家族にとってはご遺体を傷つける訳で、誠に気の毒なのだが、患者さんの体の中で何が生じ、死に至ったか検証することは非常に大切なのだ。
その意味で、我々にとって病理医は裁判官以上の意味を持つ。

その結果が判明するには数ヶ月かかる。無駄に長いようだが、各臓器の顕微鏡標本が作成され、病理医が一つ一つ確認し、臨床病歴と照らし合わせるのはそのくらいかかってしまう。病理医もほかに仕事は山ほどある。その結果を報告し、討論するのが剖検カンファレンスである。施設によってはCPCなどと言われることもある。
これだけ画像診断や臨床検査が発達した時代では、生前把握された状況と大きくかけ離れた結果が出ることは少ない。しかし、時にはあっと驚くどんでん返しが待っていることもある。

こういった行事は、日常の診療が終わった夜行われる。病院食堂でカレーうどんをかっこんで、睡眠不足もあり眠くなった所に長々と臨床経過が語られる。妙に細かい所に粘着する先生がいたりすると、なかなか話が進行しない。睡魔が好みそうな状況なのだが、教授から実に良いタイミングで「haohao君、このトランスアミナーゼの動きに対し、凝固系のデータが乖離しているのをどう解釈するかね」などと話がふられる。そこでスリープモードから即座に起動するのが大事なのである。

で、何を言いたいかであるが、医者が非常に粘着というか長々と話をするのは、そういった状況をひとつひとつ詰めていって、あたかも穴の無い構造物を造るがごとく患者さんの経過を再現するのに慣れているからである。無論膨大なメモリー空間が必要なのだが、多量の情報を受け入れ続ける忍耐も不可欠なのである。
そういった話についていくのに、一般の人は困難を感じるかもしれない。
逆に、司法の話に付いていける医療者が結構いるのが驚きなのだが、そういった訓練を通して論理的考察を行うのがそもそも快感になっているのかもしれない。


小生にはとても無理な話だが。